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能:楊貴妃

幽玄して優艶。深い情趣と余情。史上稀な美女、楊貴妃の恋心を描く鬘物の大作。

□唐の皇帝、玄宗は、安禄山の反乱で都長安を逃れる途中、馬嵬が原で臣下の怒りを押さえきれず、寵姫、楊貴妃を殺させました。
安禄山の乱鎮圧後、長安に帰った玄宗は、楊貴妃が忘れられず、政務も手につかないほど嘆き悲しみ、方士に、せめて魂魄の在処なりともたずねるよう命じます。
 方士は天上、冥土、隈なく尋ね、ついに常世の国蓬莱宮まで来ます。
ここは豪壮な宮殿が連なり、漢の宮殿、唐の長生殿、驪山宮をもしのぐものでした。
方士は所の者から教えられ、太眞殿に貴妃をさがしあてます。
 貴妃は孤独を悲しみながらも、在りし日の玄宗との愛を回想し日々を送っています。
方士が玄宗の使いで来たことを告げると、貴妃は玉の簾をかかげて、その艶麗な姿を現します。方士が玄宗の歎きを伝えますと、貴妃は、こうして訪ねて来てくださるのはありがたいのですが、思いがさらに深くなり辛いのです、と言い涙にくれます。
方士は急ぎ帰って報告します。その証拠の物を下さいといいますと、貴妃は形見の釵を与えます。方士は、これは世の中に似たような物があるので信じないでしょう、帝と貴妃と人知れず約束した言葉があればそれを証拠にしましょうといいます。
貴妃は、七夕の夜、「天にあらば願わくば比翼の鳥とならん、地にあらば願わくば連理の枝とならん」と二星に誓ったことを話しました。
 方士が別れを告げますと、貴妃は思い出の羽衣の曲を舞うから、と方士を引き止めます。
そして人の生死について語ります。
 思えばすべての事は夢まぼろしのようなもので、はかない蝶の舞いのようなものです。
はるかな過去から果てしない未来へ流転輪廻をくり返し、生死の終わりはないのです。
人の生について考えると須弥山でさえ永くも千年で命は尽きるのです。まして人間界では老少不定の掟はさけられないのです。
 私はもと天上界の仙女でしたが、人間界の楊家に生まれて来ました。帝に召し出され後宮に入りました、など玄宗との愛の日々を語り、会者定離、こうして別れなければならなかったのですと語り、羽衣の曲を舞います。
 やがて方士は釵を頂き都へ帰っていきます。
 貴妃は、幽明境を異にする私達です。方士に伴われて玄宗のもとに帰ることはできないと打ち沈み、また一人常世の国の宮殿に残ります。

□この能はもっとも能らしい能といわれ「女能の第一である。装束など結構な物にし、立、居、舞など美しく、さして習事はないが、重々と舞うこと」とも言われる三番目物「かずら物」の代表作の一つです。かずらとは女性の髪のことです。
「定家」の式子内親王、「大原御行」の建礼門院とこの「楊貴妃」とを三婦人と呼びます。高貴な三人の女性ということです。この外の曲にも高貴な女性は登場しますが、曲の品格、格式のこともいっているのでしょう。
戯曲的にも優れています。昔から膾炙された「長恨歌」を巧みに、縦横に駆使した名文にしあげています。
この能のポイントは重厚さと品格です。前半は床几にかかり、さしたる型がないので謡に比重がかかり、工夫を要するところです。後半は終始、能の定型、基本の型を連ねて極めて静かに舞います。「道成寺」など型の変化や技術的に難しいものに比し他人から教わることの難しい「間」を克服しなければなりません。「技術」と「間」と両極の技を習得してその人なりの完成に近づくのでしょう。大曲といわれる所以です。

□この能の典拠、長恨歌は楊貴妃の死後五十年、玄宗の死後四十年、唐の大詩人白楽天の手によるものです。陳鴻の長恨歌傳に陳鴻、白楽天、王質夫、三人の遊山のとき話が玄宗、楊貴妃に及び互いに感嘆した。王質夫は酒杯を白楽天の前に挙げ、この物語を詩にしてくれまいかと勧めたとあります。その後白楽天は陳鴻に長恨歌傳を書かせました。

□楊貴妃は地方官吏の娘でした。17歳の時、玄宗の子と結婚、その麗姿が玄宗の目にとまりました。世間体から玄宗は楊貴妃を道教の尼にして改めて後宮にいれました。
 楊貴妃は美人というだけではなく、歌舞音曲にすぐれ「頭がよく口も巧みで帝の考えに先立って考えを見てとる」才女だったといいます。政治には無関心で妃の最高位、貴妃のなっても政治に口出しすることは無かったと云います。高宗の妃、則天武皇が唐朝を一時簒奪、それに習うかのように中宗の妃、偉后が中宗を毒殺、政権を奪ったことはつぶさに知っていたでしょうが政権には全く無関心でした。ひたすら玄宗との愛情生活に没頭しました。 
□玄宗は712年、偉后からクーデターで政権を奪回、「開元の治」と言われる善政をしきました。性格、風貌ともに優れ、書、音楽をよくする芸術家的天分にも恵まれ、自らも楽器を演奏し「皇帝梨園弟子」という楽団を置いたことは名高く、歌舞伎界を梨園と呼ぶ語源になりました。この能にも引用されている「霓裳羽衣の曲」(げいしょうういのきょく)は玄宗が道士に伴はれて月宮(月にある宮殿)に遊び、聞いた音楽をもとに自ら作曲し驪山宮の夜遊のとき楊貴妃に舞はせたといいます。
政権をめぐって夫婦、肉親、争うことが珍しくない世相でしたが玄宗は兄弟仲がよく、そのエピソードがたくさん残っています。白楽天が長恨歌を作ったのも玄宗の人柄を慕ったからだと言われています。

□楊貴妃の最後は酸鼻を極めるものでした。異民族出身の安禄山は並外れた才知で官位を進め、一方楊国忠は貴妃の一族たるを利用して官位を進めました。二人は玄宗の恩寵と権力を争い、安禄山は楊国忠を討つという名目で反乱を起こします。反乱軍が長安に迫り、玄宗は長安を脱出、蜀へ向かいました。途中,馬嵬駅で恐怖、疲労、空腹など、兵士の怒りが爆発、楊国忠を殺しました。次いで貴妃の二人の姉妹などが次々に殺されました。それでも兵士の興奮はおさまりません。最後の決断を迫られ、窮した玄宗は詮方なく宦官、高力士に命じて貴妃に死を賜ります。高力士は仏堂の中で貴妃を絞殺しました。辺りに貴妃の装身具が散乱、無惨此の上ない光景でした。貴妃38才。

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