能:清経
◆平清経は平家の前途、身の行く末を悲観し、豊前の国(大分県)柳が浦の沖で入水しました。
清経の臣下淡津の三郎は、遺品を清経の妻に届けるため、しのびしのびに上洛します。都に着いた淡津の三郎は清経入水の様子をどう説明したらいか迷いに迷った末、清経の妻に報告します。
清経の妻は、せめて戦で討たれたとか、または病気で死んだというのなら諦められるのに自分から身を投げるとは、かねてから又、必ず廻り会うと約束したのは偽りだったと恨み言をいい悲嘆にくれます。
淡津三郎は清経入水のあと、舟中に残された遺髪を清経の妻に渡します。
遺髪をみて妻は嘆き悲しみます。見る度に思いが募り、その思いに耐えられないと思い妻は遺髪を手向け返し、夢の中でもいい、姿を見せて下さいと涙ながらに床につきます。
なかなか眠れない妻の枕元に甲冑姿の清経が現われます。
妻は、たとえ夢であってもありがたいこと、といいながらも自ら身を捨てたのは約束が違いますと恨みごとを言います。
清経も、心をこめて送った黒髪を手向け返すとは、とお互いに恨みごとを言い合います。
とにかくこの上は恨みは晴らしなさい、と西国落ちの様子や入水の様子を語ります。
太宰府(福岡県)を追われ、山鹿の城に入った平家一門はここにも緒方三郎の軍勢十万が攻め来ると聞き、小舟に分乗し豊前国(大分県)柳が浦につきました。
宇佐八幡に参詣し、いろいろの祈願をかけました。やがて神のお告げがありました。
「世の中の宇佐には神もなきものを何祈らん心づくしに」。一門は神にもみはなされたかと力を落としてしまいました。
一門は、ここに七日間滞在しましたが内裏をつくる財力もありませんでした。
ここにも長門から敵が攻めてくると聞き、また舟に乗り、行き先のあてもなく漂い出しました。白波は追っ手のように見え、松に群がる白鷺は源氏の白旗かとキモをつぶす有様でした。清経は宇佐八幡のご託宣をしみじみ思い、八幡の加護はないものと思いました。
ここで清経は来し方行く末を観じ、昔の栄華は帰るはずもなく、つらい日々は重なるばかり、いつかは立ち騒ぐ白波のように、この身も消えてしまう。この世とて仮の世であり旅なのだ、何も思い残すことはない、人は狂人と思うだろうが、それもかまわない。
清経は舟の舳板に立ち上がり、横笛を吹き、今様を謡い、朗詠を吟じて、心を澄まし阿弥陀如来よ、お迎えくださいと、一声を最後に海の底に沈んでいきました。
西海での一門の難渋、入水のいきさつを聞き、妻は更に涙にくれます。
清経は死後、武人が落ちる地獄、修羅道の有様を妻に見せ、姿を消しました。
◆本曲は、勇壮な戦勝物語、又は敗戦の滅び行く者の悲哀を主題にした修羅物、(又は二番物ともいう)の中で、はなはだ趣を異にした作品です。
キリと呼ばれる終曲に、戦いを事とする者が死後陥るという修羅道の場面はありますが生前の戦いの場面が全くない作品です。
前半に夫婦の情愛を描き、後半では極楽往生を信じ入水に至った清経の内面を描きます。内容的には「四番目」的色彩の濃い作品です。
類曲に「朝長」があります。「朝長」は青墓の長者、宿の女主人が青年武将、朝長の死を悼むというのが主題となっています。清経は前、後場のない単式能であり朝長は複式能であるという違いはありますが「人の愛」を主題した点でよく似た作品です。
この両作品に小書があり、清経は「披講之出端」(恋の音取り)といい、笛の独奏に、その笛の音に引かれて清経の亡霊が出てきます。朝長ではセン法といい、太鼓の独調でシテ朝
◆この曲のクセは、新古今調の美文で、数ある謡曲美文の中でも一級品です。
美文と美しい節(曲節)で主人公、清経が死に至るまでの経過、死を覚悟するまでの経過があますところなく、かつ、わかり安く語られています。
型(ふりのこと)も洗練されて美しく、とくに心理描写にすぐれています。
長老の芸談によれば例えば「白鷺のむれて居る松見れば源氏の旗をなびかす多勢かと肝を消す」の足拍子を外して踏むなど、心の動揺を表現する工夫が随所になされています。
ともかくもこのクセを見ていると、極楽浄土を信じて後の世界に旅立った先人を思い、自分自身は何を信じて死んでゆくのだろうとつくづく思います。
◆本曲の典拠は「平家物語」「源平盛衰記」だといいます。これらの軍記物語は能の格好の題材になりました。
十三世紀に源氏・平家の興亡を描いた「保元物語」「平治物語」「平家物語」が成立、つづいて承久の変を描いた「承久物語」があらわれ、下だって十四世紀の南北朝の戦乱を描いた「太平記」があらわれました。
なかでも「平家物語」は、琵琶法師とともに今の世でもよく知られています。
◆寿永2年(1183年)7月、平家一門は木曽義仲に追われ西下(福原落)8月に太府に落ち着きました。
同年十月緒方維義三万に攻められ、遠賀川河畔(福岡県)山鹿の城に入り数日を経ず宇佐八幡に近い、豊前国(大分県)柳が浦に落ちました。
七日間滞在しましたが、ここにも又維義軍五万が攻めて来ると聞き小舟に分乗し海上に逃れます。平清経はこの柳が浦で入水しました。
そののち、一門は讃岐(香川県)に拠り、同じく10月水島の合戦、11月室山では戦勝し、翌年寿永3年1月、一旦福原に帰りました。同年2月西下した範頼、義経軍と一ノ谷で戦い、翌寿永4年2月八島、3月壇ノ浦に連敗し、平家は滅亡しました。清経の入水は源平の決戦のまだ緒戦にもならない時でした。
◆太宰府を攻めた緒方三郎維義は清経の父重盛の御家人でした。
清経の次兄資盛が説得工作に向かいましたが、失敗に終りました。
「左中将清経はもとより何事も思いいれたる(思いつめる)人なれば」―平家物語―
清経は又心の重荷を負うことになりました。
一門の「太宰府落ち」の脱出行は辛酸をきわめました。「女房、北の方は裳、唐衣を泥に引き、徒、はだしにて我先にと逃げ給う」―源平盛衰記―「御足より出づる血は、いさごをそめ紅の袴は色をまし、白き袴は裾紅にぞなりける」―盛衰記―。落ち着く間もなく大軍におそわれ、その周章狼狽ぶりが目の前に浮かぶようです。柳が浦では宇佐八幡に祈願しました。「神殿大いに鳴動してやや久しくしてゆゆしき御声にて―世の中の宇佐には神もなきものをこころづくしになに祈るらん―」―盛衰記―
神に見放された一門の落胆ははかり知れません。
◆清盛の死後、清盛の子らは、清経の父重盛と、宗盛、友盛、重衡などの兄弟、二つの系統に分かれたようです。同じ兄弟ですが、母系が違い、重盛家は小松殿といいました。小松殿重盛は、父清盛の専横を諌めるなど穏健派だったようです。小松家は政治的にも宗盛派と対立し、たとえば安徳天皇を擁立した宗盛派とは一線を画していたようです。
平治の乱のとき源頼朝の命ごいに、池の禅尼の嘆願をたずさえ、清盛を説得したのは重盛でした。このためか鎌倉殿、頼朝は小松家には温情的であったようです。
都落のとき、清経と兄資盛が都に妻を残したのも頼朝の温情を信じてのことでしょう。もっとも盛衰記は「清経は女房をも西国へ相具し奉らんと宣ひければ女房さも、と出で立ち給ひけるを父母大いにしかり許し給ひざりければ」とありかなりの愛妻家だったようです。
小松家は一ノ谷の合戦ではいち早く戦列を離れ、海上に逃れました。
名だたる合戦で名をあげたのは宗盛派であり、小松家の人達は徹底抗戦の宗盛派に批判だったようです。
清経の父重盛は病床にありながら、おして熊野参詣をするなど深く熊野を信仰していました。
この頃、熊野は神道と密教が習合した修験道が盛んで本宮の祭神は阿弥陀如来でした。
重盛の長子維盛が、八島の行宮から突如高野山へ入ったのも小松家の人々の仏への帰依が深かったことを示しているように思われます。
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