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能:枕慈童

菊の霊酒を飲み七百歳を保つ少年が帝の治世を寿ぎ「楽」を舞う。

□周の穆王に仕える少年、慈童は不敬の罪を問われ、野獣の住む深山、麗県山に流されます。
時は移り七百年後、魏の文帝の世となります。文帝の臣下が麗県山から流れ出る薬の水の源をたずねて山に分け入ります。
山中の小屋には慈童が七百年を経てもなお少年のままの姿で昔を回想しています。勅使はその姿に驚き数百年も生きた者はない、化生の者であろうと訝ります。慈童は穆王から拝領の枕を見せ、枕に書きつけた二句の偈を菊の葉に書きつけ、その葉から滴り落ちた露を飲み、七百歳の齢を保ったと語りこの菊の酒を自らも飲み、勅使にもすすめ「楽」を奏し帝の治世が千年、万年も栄えるようにと祈り七百歳の齢を授け、群れ咲く菊をかきわけ仙家に入ります。

□ワキ勅使は、唐冠に狩衣姿、ワキツレは洞烏帽子に赤地狩衣姿(赤大臣といい初番物ではきまりの出立)で、他の脇能物(初番目物)と同装です。ワキの唐冠は舞台が中国であることを示しています。
人跡未踏、虎や狼の住む深山にこの正装は「よりリアルに」に馴れた私達には奇異に見えるでしょう。能では「雰囲気作り」「より美しく」を貴び、すべてに優先します。
これによって祝言色が横溢するのです。シテの面は「童子」又は本曲専用面の「慈童」をかけます。この面は永遠の若さを象徴し、神性を帯びた面だといわれています。
頭には「黒頭(くろがしら)」をつけます。人の形でありながら人格を離れた、妖精、幽鬼や鬼畜などに用います。
この曲の見所は「楽」です。唐物(中国に関連するもの)に舞われる舞で、大陸的なおおらかな舞です。独特なリズムと、足で床を踏む、足拍子を多用するのが特徴です。一畳台に皇帝拝領の枕を置き、回りを菊花でかこみます。季節には生花を使い能楽堂は菊の香に充ちます。

□菊は中国渡来の花です。花屋で売られている花は、ほとんどが外国で交配して作られたものが元になっています。元来、日本人は交配が嫌いな自然派のようですが、菊は格別のようです。奈良時代に渡来、江戸時代に改良が進みました。皇室の紋章も菊です。野生種に、イソギク、ハマギク、ノジギク、リュウノウギクなど、きれいで可憐なものがあります。食用のヨモギ、フキ、春菊や野の花の代表タンポポも仲間です。

□本曲は太平記巻十三「法花二句之偈事」に拠るといいます。
「二句の偈」要旨
周の穆王は天馬に乗り辺地までも巡行した。あるときインドに赴き釈迦の説法を聴聞し、法華八句の偈を授けられた。
王が寵愛していた慈童という少年があった。あるとき慈童は誤って王の枕を跨ぎ越え、その罪により深山に流された。
哀れんだ王は八句の偈のうち二句を慈童に授け毎朝この文を唱えよと教えた。
慈童は、もしかして忘れる事もあるかと思い、菊の葉にこれを書き付けた。
この菊の葉に結んだ露が流れ落ち、流れの末の川の水が甘露の霊薬となった。
慈童はこの水を飲み、八百年を経てなお少年の容貌を保ち、換骨羽化の仙人となった。
魏の文帝のとき、帝に召し出されて「彭祖」と名を変え、この偈を文帝に授けた。
文帝はこの教えを受けて菊花の杯を伝え万年の長寿を祝福した。
今の重陽の節句はじめという。

□慈童説話は皇室と仏教のかかわり合いから生まれたといいます。
中世のかなり初期から「即位潅頂」というものが行われ天皇の王位継承のとき、即位の仏教的儀礼化、教義的説明を行ったといいます。
のちに「穆王説話」がこれに附加され流布し、更に慈童説話が加わったと言います。
本曲は、成立当時、慈童が罪を犯し麗県山に流される前場があり「四番物」として上演されていました。現在は小書き「前後の習」に残されています。
これらを考え合わせると「即位潅頂」をかなり意識して成立した作品であるともいえます。
専制君主国家のもとでは、英主の出現が民の幸福を左右することであったし、待たれたのです。本曲の典拠ともいわれる太平記「法花二句の偈」でも、この故事を引いて時の天皇を万里小路藤房が諌めたことがみ見えます。

□穆王が神仙と交わったとする説話は漢籍の竹書紀年・列子・穆天子伝に見えるそうです。この中国の神仙が、釈迦に取って替わり「即位潅頂」に取り入れられ、これに更に慈童説話が付加されたといいます。慈童説話は、我が国でつくられたようです。その契機となったものは漢詩文であるといいます。「風俗通」に「南陽の麗県に甘谷あり山中に菊花開き谷水は甘美にして谷中の三十余家これを飲むに長寿を得たり」とありこれをもとに漢詩文が作られたといいます。
魏の文帝が鐘ヨウに一束の菊を賜った故事(芸文類聚)や、彭祖という仙人が菊を服し七百歳の長寿を保った(列仙伝)故事が和漢朗詠集に詠まれるに至って広く流布しました。
これらから慈童説話が生まれたらしいといいます。
慈童説話の初見は鎌倉中期の眞言宗の学匠、頼喩の「真俗雑問答鈔」に見えるそうです。

□金剛流の小書に「前後の習」があります。
慈童が罪を犯して麗県山に流される場面が前場で現在演じられている場面が後場となる復式能です。この「前後の習」が本来のものだったようです。
徳川の中期に前場を削り、更に祝言色の濃い作品に仕立てました。他の流儀では同じ内容で異曲の「枕慈童」もありますが、上演は稀のようです。

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