百 万


□あらすじ 

春の嵯峨野、清涼寺に幼い子供を連れた男がやってきます。
男は奈良、西大寺のあたりで迷っていたこの少年を拾い、清涼寺の大念仏に来たのです。
男はこの子供に面白いものを見せたいと門前の男のすすめで、
女物狂、百万を呼び出すためにわざと下手に念仏の音頭をとります。
この念仏に誘われて百万が現れ、なんと下手な念仏よと門前の男をささで打ち、
追い払い、私が音頭を取ろうと念仏をとなえはじめます。
そして、さらに子を思う心情をうたい舞います。―以下笹ノ段―

「一世限りの親子の道に執着して子を思う心の闇をはらすことができない。
やっと世を渡る身でありながら、その上『子は三界の首枷』となるのか。
牛が車を引き続けるように私は永遠に子にひかれて行くのです。
百万はさらに自分の身なり、やぶれた着物のことなどを謡い舞い、乱れ心ながら
信心をするのもわが子に逢うためです。仏様どうぞ我が子に逢わせて下さいと祈ります」。

少年は母であることに気づき、男によそごとのようにたずねるよう頼みます。
男が郷里や、どうして狂人となったのかとたずねると、百万は幼子に
生き別れになったので心が乱れてしまいました。こうしてあちこちの人に面をさらして
歩くのも子にあうためで、ただただ仏様におすがりするだけです。
我が子に逢うための舞です。百万の舞を見てくださいと、故郷を狂い出た心情や、
奈良から清涼寺までの道中の様子、春の嵯峨野の景色や清涼寺釈迦堂のいわれなどを
曲舞につくり、謡い舞います。―以下曲(クセ)―

「人のほんとうの故郷とはいったいどこなのでしょうか。雲や水のように定めのない
身の果てを思い、つらい月日をおくっていたが、二世を契った夫と死別してしまった。
そして西大寺の柳の樹のあたりで我が子も行方しれずになってしまった。
どうすることもできない思いが重なり奈良の都を出て三笠山をかえり見、佐保川を
渡り山城を出、井出の里の玉水に影をうつし、足にまかせていくうちに
嵯峨野の清涼寺につきました。
お参りしてあたりをながめると花の大堰川、真っ盛りの山桜、嵐山、松の尾、
小倉の夕霞、着飾ったいろいろな人がお参りに集まって来るのが見えます。
まことにこの寺はありがたく尊いことです。この寺の釈迦如来の尊像は、
私どものように迷いのある人々を導くため神通力を現し、インド、中国、わが日本、
と三国に伝来し、この寺にご出現されました。お釈迦様の安居の説法は御母摩耶夫人の
ご供養のためでした。
仏様でさえ御母をいとおしくお思いでしたのです。
ましてや人間としてどうして母を思ってはくれないのですと子を恨み、我が身を
なげきそして祈りました。親子が逢う願いをこめた百万の舞を見てください」

これほど多くの人の中にどうして我が子がいないのだろうと百万は群衆の中に
我が子を探し回りいよいよ狂乱となって、御仏のご誓願によってどうぞ我が子に
逢わせてくださいと手をあわせます。
都の男は、見るもいたわしいと子を引き合わせます。
百万はもっと早く名乗りでてくれたら、このように恥をさらすこともなかったのにと
言いながら、よくよく考えてみるとこれも本尊釈迦如来のお導きで
逢うことができたのです、仏の力のありがたいことと奈良の都へ帰っていきました。

□この能には、他の狂女物に少ない、華やかさと浮き立つものがあります。
シテの登場や、これに続く歌念仏、当時祇園会に出たという女曲舞の舞車を引くさまを
模したものと思われる「車ノ段」、続いて「笹ノ段」と息もつかせぬ華やかさです。
烏帽子に長絹姿がいっそう華やかさを増します。
このいでたちは「芸をする人・曲舞の芸人」ということを意味します。
百万は中年の女性ですので赤い色の無い「紅無し」の装束をつけるのがきまりですが
「紅入り」を着せたい雰囲気です。
笹は狂女をあらわします。

□この能は、当時有名だった女曲舞「百万」の曲舞ぶりを再現するのが目的の
能であるといいます。
子を求める狂女は、脚色の一部のような感じさえします。
「狂い物」につきものの「狂いの段」や、狂乱をあらわす「カケリ」もありません。
行方しれずの子や恋人、主君を思う切羽詰まった心情が希薄のように思われます。
この能の原曲「嵯峨物狂」は、世阿弥の父、観阿弥の得意曲であったといいます。
観阿弥はこの百万の伝統をひく乙鶴から曲舞を習い能に取り入れました。
観阿弥はこの乙鶴から百万の舞台ぶりを聞いていたのでしょうか。
百万と乙鶴の年齢のへだたりは30才ほどだったといいます。
この「嵯峨物語」の「クセ」は「地獄の曲舞」でした。
後に世阿弥が現行のように改めたといいます。「地獄の舞曲」は現在
「歌占」のクセで舞われます。

□百万は室町時代、1300年中頃、奈良にいた実在の女曲舞です。
百万は奈良、百万ヶ辻に住んでいました。西大寺の念仏会でわが子を見失い
のち嵯峨の念仏会で再会したと南都坊目遺考にあるそうです。

□清涼寺は当時唐招提寺の円覚上人が広めた融通念仏の大道場でした。
この円覚上人は幼時迷子になり寺に拾われ、後に高僧となりました。
母を求めて諸国を遍歴し、融通念仏を広め播磨の国で母に再会しました。
上人の念仏会に集まる群衆十万、人々は十万上人と呼びました。
十万上人の母だから百万と呼んだ、とあります。
清涼寺は本曲の舞台としてまたとない場所といえるでしょう。

□曲舞は、下級の陰陽師の系譜を引く下層民の声聞師の職業の一つでした。
鼓に合わせ直垂(ひたたれ)姿で舞う男の舞いでした。
のちに水干(すいかん)立烏帽(たてえぼし)の男装の女曲舞いや児曲舞(ちごくせまい)が
人気を集めたといいます。
京の祇園会には奈良の女曲舞による舞車も出たといいます。
「笹ノ段」の「引けや引けやこの車」の「この車」は子に引かれる「牛の車」と、
引きなれたこの舞車をかけているのかもしれません。
織田信長の「敦盛」で知られる、幸若舞も曲舞の一派と言われています。

□物狂の能にはいろいろあるようです。思いもよらない事情で別れた子や
夫、恋人や主君を求めてさすろうというのが筋のようです。
当時は物狂を演ずる芸能者、あるき巫女、たたき白拍子といわれる人も
いましたが実際「思う人」をたずねて諸国を遍歴する人たちがいたのでしょう。
所々で「もの狂い」を見せて人を集め「思う人」を探したのでしょう。
能「隅田川」では船頭が「かの者を待ち船に乗せうずるにて候」とあります。
人々はこの物狂の人たちをあわれみ、いろいろな形で援助したのでしょう。
女性の一人旅には「物狂」は都合が良かったのかもしれません。
                                     (梅)

平成17年度第1回東京金剛会例会能に戻る